異類婚姻譚

この作品のどこが芥川賞に値するのか分からない。

本谷有希子は、「腑抜けども、悲しみの愛を見せろ」と「生きているだけで、愛。」を読んだことがある。うまい下手は関係なく、勢いというか必死というか、若さゆえの青臭い魅力が若さゆえの未熟さを上回っていた。

それに比べて本作は文章がうまくなっている。若い頃の作品しか知らない私には、これが本谷作品とは思えない。ただ、うまくなったからいい作品と言えるかは別。それなりに面白くはあるけれど、繰り返すが、これが芥川賞を獲った理由が分からない。

分からない私がバカなだけなんだけど。

 

未必のマクベス

この小説は、偉大なるデキソコナイである。

(以下、ネタバレあり)

ストーリーが、破綻しているとまでは言わないが、ちょっとおかしいんじゃないかと思うところがいくつもある。

特にひどいと思うのは、主人公中井は森川が鍋島であることに気づかないが、読者は早い段階に見破ってしまうことである。(自分以外の読者のことはしらないが、おそらく誰でも見破れると思う)。これは、作者が見破られないと思って、つまり、読者をうまくだましていると思って話を進めているのか、主人公が見破るドキドキした場面が後のほうで準備されているのか、それとも、実は森川は鍋島じゃなくて、読者の「見破った」という優越感を叩き潰そうという作者の作戦なのか、いったいどういう仕掛けなのかと期待する。

しかし、なんの説明もなく、森川が鍋島であることを、主人公が当たり前のように知っている場面が唐突に現れる。ひょっとしたら、森川が鍋島であることに主人公が気づいたページを読み飛ばしたのかと思って、何ページか戻ってみた。しかし、そんな場面はなかった。

小説の創作の作法として、こんなバカな展開はないだろう。作者が読者に向けて仕掛けたであろうトリックが、まず最初にバレバレで、そのあと作品中で解き明かされる山場もなく、さらに、バレバレと思わせといて実は予想外の種明かしが待っているというドッキリもないなんて、まったく小説としてデキソコナイと言うしかない。

ほかにもある。主人公は、自分の愛する二人の女性のために、年齢と体型の似かよった女性二人を殺し、顔をつぶして、愛する二人の身代わりに使う。

ふつう、小説の主人公はそんなことをしない。殺人という犯罪を犯すにしても、やむにやまれぬ事情があってのことだ。少なくとも、敵対する悪人は殺しても、なんの罪もない人間を殺すことはしない。しかし、この小説の主人公は、ためらいもなく人を殺す。愛する者たちのために、主人公としては「やむにやまれず」なのだろうが、その罪におののいたり苦しんだり、そういったことは一切ない。

ただ、小説は道徳本ではないのだから、倫理的である必要もない。非人道的だろうとなんだろうと、小説は面白ければいいのである。非人道的だったら、読者が共感できずに、面白いと思われる可能性が低くなるだけで、そこさえクリアできる力があれば、非人道的かそうでないかは、小説の世界では関係ない。

この作品がそこをクリアしたかどうかは人によって感じかたが違うと思うけれど、僕はこの小説が面白かった。

だから最初に、「偉大なる」と書いた。「デキソコナイ」であるにもかかわらず。

 

コンビニ人間

心に障害のある主人公と彼女の周りとの間に生じる摩擦を彼女の側から描いた作品である。

と言っても、障害者の苦悩を訴えたり、障害を克服する姿を感動的に見せたりする類いのものでは全くない。(そもそもこの作品の中に「障害」という言葉自体でてこない。)

誰もが、職場や学校や街中で「困った人」の一人や二人見たことがあるだろう。どこかフツーの人とズレていて、訳の分からないところで怒りだしたりする人である。主人公は他人を怒ったりはしないが、フツーであることが理解できず、しかし、フツーであるフリをしないと暮らしにくいことは理解している。

そういう主人公を通して、この作品は読者に、フツーであることの異常さとか醜さとかを見せつけている。我々がフツーだと思っていることが本当はフツーじやないんだと教えてくれる。

李鷗

仮にこの作品を僕が書こうとしたら、拳銃の構造に詳しくないといけないし、旋盤やフライス盤の使い方も覚えないとダメだし、中国語を書いたり読んだりできないといけないしし、クラブやバーがどんなところか分かってないといけないし、つまりは、関係者に取材するか、関係書籍を読むか、とにかく勉強しないとこの小説は書けないわけで、高村薫が工業高校卒のガンマニアで、銀座の(じやなくてもいいけど)クラブでバイトしながら中国人の恋人と付き合ってたのなら別だけど、そうでなかったら(たぶんその全部が「そうでない」の方だと思うけど)どうやってそれらの知識を得たのだろう。

作家というのは大変な職業だと思う。

ザ・スクウェア 思いやりの聖域

いつもタイトルに拘ってしまうのだが、最近、外国映画に邦題をつけるとき、サブタイトルが分かりやすすぎるというか説明的というか、サブタイトルがついたが故に底の浅い印象を与えてしまっている映画が多い気がする。

「ザ・スクウェア」だけだとSF映画だと思われると心配したのだろう。

で、タイトルの話はそれくらいにして、中身がどうだったかというと、よく分からない映画だったというのが僕の感想。つまり、あまり面白い映画でなかったということと、監督が観客に何を面白いと思わせようとしたのかも分からない映画だったということ。

 

グッバイ・ゴダール

ゴダールが生きていたらこの映画に怒り狂うであろうから、ゴダールがすでに死んでいることを教えてくれる映画である。というのはさておき、それくらいゴダールを愚かで性格の悪い人物として描いている。それが逆にゴダールを魅力的に見せているのならいいのだが、単なるバカで性悪な男を見せられるだけだから、映画としては面白くない。

だけど、ゴダールの妻、アンヌ役であるステイシー・マーティンがとても可愛い。ヌード姿の小さな乳房がとても可愛い。

この映画は、見苦しいゴダールではなく、可憐なステイシー・マーティンを(アンヌではなく、アンヌを演じているステイシー・マーティンを)観て楽しむ映画なのである。