わたしたちに許された特別な時間の終わり

わたしたちに許された特別な時間の終わり (新潮文庫)

わたしたちに許された特別な時間の終わり (新潮文庫)


第2回大江健三郎賞受賞作。
たとえば芥川賞とか直木賞とかあって、選考委員会が受賞作を決めるというアタマがあったものだから、この作品を選んだ選考委員は誰なんだろとか漠然と思っていたが、どうやら大江健三郎本人が選考したみたいで、それは、本人の名前を冠した文学賞なのだから、本人が死んだ人ならいざしらず、現役バリバリで生きてんだったら、本人が選ぶのが当たり前なのだった。
それにしても大江さん、巻末の選評でベタ褒めである。そして、選評の文章と本作は実に似ている。たとえば94ページ最終行を引用する。
「わたしがキーに触れたので、それは起き上がって、画面に、わたしが深夜の間に、短い眠りを途中に何度か挟みながらずっと読んでいたいくつかの日記のうちの、最後に読んでいたやつがそのまま残っていたのを、数秒で浮かび上がらせた。」
比較するために選評からも抜書きしよう。176ページうしろから3行目。
「この小説の語り手は(それもブログを挿入したり、語り手の想像の場所に書き手がはみ出るような描写を自然に続けたりして、まったく新しい文章が作られてるのですが、一応、在来の小説の語り手としてあつかってみます)「わたし」という話し方をする、すぐにも三十歳になろうとしている女性だけれど、湿気があって黴臭いアパートの部屋の、布団にかけたシーツの触感にいつもこだわりながら、その日はアルバイトの仕事を休もう、と考えて、さて様ざまにその自分の生活について、そこに跳び込んでくるブログなども相手にしながら言葉をつむぎ続ける…端的にいえば、そのようにして横たわっている女性なんだ。」
引用が長すぎて疲れた…。
大江はカッコ書きを使っているので分りやすい文章になっているが、二人に共通なのは、文章の中に文章がはめ込まれた、いわゆる「入れ子」状態の文章が多いということだ。そして、主語の上に長々と修飾の語が連なっていたりもする。そのようにしてひとつの文章がジグソーパズル的に構成されているため、ちょっと読みづらい。そして、読みづらいがゆえに、頭の中でパズルが組みあがったときに文学的快感を味わえる仕組みとなっているのである。

余談だが、最近、読書のペースが速まっている。これは、さして面白くないものを読んでいるときは、早く読み終えて別のものを読みたいがゆえである。