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マチネの終わりに

book
平野啓一郎毎日新聞で連載していた小説が昨日終わった。何年か前に、やはりどこかの新聞に載せていた小説は明らかに駄作だったが、今回はいいデキだった。
なぜ良かったかというと、メロドラマだったからだ。クラシック音楽業界やらイラク紛争やらを背景に、知的好奇心をくすぐるような話も楽しいのだが、結局はメロドラマというベタなところにこの作品の成功があったと思う。
それに、登場人物たちの気持ちを上手く言葉に変換してくれたのが、自分も同じ気持ちになったことはあっても上手く言葉(それは誰かに喋るためではなく、自分の気持ちを分かりやすく把握するために。)にできなかった経験を思い出させられて、平野啓一郎は上手いなあと感心もした。
ただ、蒔野が早苗のケータイを借りて洋子にメールする場面で、送信ボタンだけは持ち主である早苗に押させるということは、世間的にフツーのことだろうか?もちろん、他人のケータイを借りたり貸したりすること自体滅多にないことであるが、あのときは緊急事態だったのだからその状況ではあり得ることとしても、借りたケータイに文章を打ち込んで、送信ボタンはケータイの貸主に押してもらうのをフツーと考える人がいるだろうか?
蒔野がタクシーにケータイを落とす、「まあ、アリ」。蒔野が送信ボタンを早苗に押させる、「ほとんど、ナシ」。早苗が蒔野のケータイを側溝に落とす、(落とすことはアリだが、都合よく側溝に落ちたという点は)「まあなんとか、アリ」。という、ケータイにまつわる無理めの展開は、メロドラマ的男女のすれ違いを演出するために仕方なかったかもしれないが、これによりいっそうメロドラマ色が濃ゆくなったのである。
だから失敗、ということではない。メロドラマとしては成功している。そういう意味では、本作は「アリ」なのである。