私が、生きる肌

邦題は失敗していると思う。意味が間違っているし、イメージもよくない。
「私が、生きる肌」だと、”I am the living skin."じゃないだろうか。英語が苦手なのでこんな英訳が正しいか自信はないけど。
じゃあ、原題の"the skin I live in"を邦訳すれば何になるかと言えば、僕は「私が生きる、肌」だと思う。読点の位置を変えただけであるが、意味的にはこっちが正しい(と思う)。つまり、「(ほんとうの)私は肌の下(内側)にいる」ということだ。
ただし、「肌」という言葉のイメージがよくないので、原題のままのほうがマシだと思う。
主演女優のエレナ・アナヤの顔は、もしも僕が高校生だったら「おばさん」と言うか言わないかくらいの年に見えるけれど、今の僕の年齢から見れば「おばさん」になる前の、「肉は腐る前が一番うまい」 の時期に見えて、つまりは「いい女」なのである。

ストーリーについても書こう。
主人公の男は、自分の娘を強姦した男(その男は「そこまではしていない」と弁解しているが、映画を見る限り、観客も、「そこまではしていない」という感想を持つ。なぜなら、挿入する直前まで娘は抵抗しない、というより、男といっしょになってセックスに向かって協力している(ように見える)からだ。そして挿入した瞬間に激しく抵抗を始める。男は混乱し、大声をあげる女を殴って失神させ、逃げる。私は強姦という犯罪を激しく憎む者であるが、この映画のこの場面を「強姦ではない」と指摘する私は頭がおかしいのだろうか?)を拉致して膣形成手術を施す。もちろん男はショックを受けるが、観客、少なくとも僕は、膣をもった男を強姦することが主人公の復讐なのだと予想する。
もちろん、そんな単純な展開にはならず、主人公は死んだ妻の顔かたちに似せて男を改造する。そして男を愛する。まあ、愛するのはいいけれど、男から愛されているとも思い始める。男の表面は妻だけど、中身は「男」のはずなのに、姿形を変えれば中身も変わると錯覚するのは、単なるバカなのだが、そこは映画のなせるワザ。「倒錯」とか「狂気」とか言ってしまえばいい。そして、男は主人公を愛するのか復讐するのか。それが最後のオチである。